学校法人 シュタイナー学園

活動報告

2025.04.01

教育

学園通信 2025年 春号 

学園通信(2025年 春号)ができました。 (PDF版はこちら

<主な内容>
・特集:藤野移転20周年
・座談会:あの頃、わたしたちは
・インタビュー:移住者の移り変わり 池辺潤一さん
・FUJINO STEINER COLUMN 19期卒業生 西田歩夢さん

表紙撮影:山本恭平



【特集】学校法人シュタイナー学園 藤野移転20周年

旧藤野町の名倉小学校廃校舎をお借りして学校法人化してから20年が過ぎました。自然豊かな山里に移転して、子どもたちはのびのび育ち、学園とともに、この地に根ざしてきました。決して平らな道のりではありませんでしたが、あたたかく迎え入れてくださった地元の方に感謝の気持ちを込めて、改めてこの20年を振り返ります。

1987年 「東京シュタイナーシューレ」として1年8名のクラスをスタート。

2001年 NPO法人になり9年制に。

2005年 藤野移転 旧津久井郡藤野町(現・神奈川県相模原市緑区)の名倉小学校廃校舎を借り、特区を活用して学校法人化を実現。初・中等部の認可を受け、自然豊かな山里で歩みを新たにしました。

2009年 新校舎完成 少しずつ地域に根付いていく中で、校舎南側の土地に新校舎を建築。オイリュトミー室と2教室からなるこの校舎は、形・色・材質などにシュタイナー教育の理念を体現する工夫を凝らしました。

2012年 高等部設置 初・中等部が学校法人となった後も、高等部はNPO法人という状況が続きました。いくつもの経緯と多大な努力の末、旧吉野小学校廃校舎を借りて高等部を設置しました。初・中・高12年一貫教育の認可された学校というこの大きな希望が実現したのは、東京シュタイナーシューレから数えて25年目のことでした。

2025年 現在~ 東京シュタイナーシューレのスタートから38年目を迎えた現在、初等部から高等部まで約250名の児童・生徒が藤野の地で学んでいます。どんな時代でも、子どもたちが「生きる」力」を持った人に育ってほしいと願い、100年続く学校を目指しています。



【座談会】 
あの頃、わたしたちは
〔お話〕
藤野地域在住/中村賢一さん
元保護者/中村節子さん
教員・元保護者/浦上裕子さん

インタビュアー/三谷ゆかり(事務局広報)
ライター/林 亜沙美

役場にかかってきた電話。それがはじまりだった。

 ―2004年11月に東京都・三鷹市で運営されていた「NPO法人東京シュタイナーシューレ」が学校法人として認可され、「学校法人シュタイナー学園」が誕生。翌2005年に神奈川県•旧津久井郡藤野町の名倉小学校廃校舎を借り受け移転し、今年で20年が経ちます。当時、旧藤野町役場に勤めていた中村賢一さんは、移転に尽力してくださったひとり。誘致のために動いてくださったポイントは何だったのでしょうか?

中村賢一さん〔以下、中村(賢)):必然的にそうなった、そんな感じがしています。1998年前後から、旧藤野町では小学校の統廃合が進んでいました。出生数が減り、人口はどんどん減少。10校あった学校を3校に減らすことになり、廃校となる7校の跡地利用が町の大きな課題でした。今でもよく覚えているのだけど、2003年に突然「東京シュタイナーシューレの古賀と申しますが…」と、跡地利用について、シュタイナー学校の先生から役場に電話がかかってきた。翌日すぐに藤野に見学にいらしたので、学校を案内したんだけど、帰り際に古賀さんが「ここに来ます」とおっしゃったんです。「だいぶ気に入ったんだな」と思いました。これがすべてのはじまりでしたね。

浦上裕子さん(以下、浦上):当時、古賀先生が藤野町のことを元シューレの音楽教師をされていた竹田喜代子先生に教えていただき、それがきっかけでした。ところで賢一さん、東京シュタイナーシューレと突然言われて、「何だろう…?」とよくあやしく思わなかったですね(笑)。

中村節子さん〔以下、中村(節)):その後、三鷹まで学校見学に来てくださいましたよね? よく覚えています。

中村(賢):まずは見なきゃと思って妻と車で行きました。教室の中で、子どもたちが“茶摘み”の手遊びをしたり絵を描いていたことが印象に残っているな。元々藤野は、戦時中に多くの芸術家が疎開して来た町。1986年頃には芸術を通した町づくりを目指した「藤野ふるさと芸術村構想」がはじまっていて、学校を見学して、その構想にもぴったりだと思ったんだよ。

 ―浦上先生と節子さんは、当時シューレに子どもを通わせている保護者でした。そもそも、なぜ移転の話が出たのでしょうか?

浦上:2002年頃、三鷹校舎にはすでに100名以上の子どもが在籍していました。けれど校舎として借りていた木造の建物は老朽化が進み、耐震性への不安もありましたし、教室が足りなくなっていました。安全面のこと、これからの学校のことを考えて、新しい校舎を探す案、三鷹に校舎を建てる案、さまざまな案が出ましたが、先生方の“12年間通える学校にしたい”という熱い想いがあって、 移転しようという流れになっていきました。

中村(節):当時は“移転プロジェクト”と呼ばれていて、とても大変でした。引っ越せる人もいれば、それができない家庭もある。みんなが同じ方向を向くことは難しく、意見が分かれました。私は学校の近くに住んでいたし、三鷹校舎も好きだったので、残したい派。当時は浦上さんとは学校のことに関してはバチバチに対立していた状態でしたね。

12年間通える学校を。その想いが支えとなった。

中村(賢):こちらも大変な状況だったよ。これから先の町のことを考えるとぜひ誘致したい。けれど、住民合意は大変だった。当たり前ですよね。“学校”は町の人にとってとても大切な場。それを知らない人に渡すんだから、葛藤があって当然。だから時間をかけて丁寧に進めたよ。学校統廃合を進めたあの時期は親戚や友人からも縁を切ると言われてしまうこともあったし、平坦な道ではなかったな。あと、誘致に関して忘れてはならないのが、当時の内閣府の「構造改革特別区域法」。これがあったからまとまったようなもの。藤野は「教育芸術」特区で、名倉廃校舎を借りるためには学校法人化を果たさなきゃいけない。浦上さんは議員にかけあったり、走り回っていたよね。

浦上:そうですね。子どもを抱えた主婦が、議員さんたちの前で演説していました(笑)。でもそれも賢一さんの後押し、人と人をつないでくださる力があったからこそできたことです。

 ―大変な中でも前進しようと思えた原動力は何なのでしょうか?

中村(賢):つらかったけど、そのことについてのネガティブな感情はなかったかな。実際に人口がどんどん減っていってる。考え方はたくさんあるけど、未来を見据えて、やることをやろうという気持ちが大きかったね。

中村(節):子どもにとってはわからないけれど、私にとってはシュタイナー教育に対する確信みたいなものはありました。

浦上:12年通える学校を、という想いですね。それだと三鷹校舎では難しかったので。

 ―移転後、変化したことを教えてください。

中村(賢):移住者が増え、子どもが増え、空き家が少なくなり、新しい家も増えた。バスも運行されている。終末医療をおこなってくださるお医者様も来て、町が豊かになったかな。何より、多様な価値観が増えたことは嬉しいよね。

浦上:移転後は高等部設置のために動きました。吉野小学校の廃校舎を借りられることになり、2012年に神奈川県知事により高等部が正式に認定されました。 NPO時代の高校生たちには苦労をかけましたが、ようやく公的にも12年制の夢が叶いました。

中村(節):移転後は、三男と四男が学園に通いました。私は子どもの授業が終わるまで「親の部屋」という場所で過ごすことが多くて、そこで手仕事をおこなっていました。 気の合う仲間と共に学校のため、子どもたちのために手を動かし、楽しかったです。あたたかさを感じていました。

受け入れる基本姿勢が豊かな未来をつくる。

 ―20年経った今、未来の学園に対するメッセージをお願いします。

浦上: もう20年も経ったんですよね。12年制の学校、保育園に学童も運営しているので、それらをさらに充実させていくことがこれからの目標です。教員を養成し、増やしていく。ほかにも福祉施設や支援教育、農場などさまざまな話が生まれていますが、これらは学校法人の枠組みにこだわらず、やりたいと感じている方たちが自らの力を発揮して実現していって欲しい、そう願っています。

中村(節):まず、20年もこの場所で受け入れてもらえたことがすごいです。藤野の方々の懐の深さに感謝しかありませんね。そしてこれだけ経つと、移転時の分断や痛みも、「必要があって起きたことだったんだ」と思えるようになってきます。未来もなるようになっていくのでしょうね。時代が持つ課題があると思うので、それに合わせて学園も変化していくのかな、と。

中村(賢):20年と言わず、これから先も100年は続いていって欲しいよね。学園のおかげで、多様性や新たな文化が藤野に育まれてきたと思う。それを感じて地元の人も「負けてられない」と、明治時代から続いていた藤野地区の村歌舞伎を復活させ、“復活村歌舞伎“として再演されるようになった。これはポジティブな進化だよね。きっとほかにも、こういう現象が多々起きているんじゃないかなと思う。自然な変化がそこにある。拒否するよりも受け入れていく基本姿勢がある方が、結果、良いものになると実感しているんだ。個性を受け入れる町、藤野。シュタイナー学園もそうあって欲しい、その輪が広がっていくといいなと思っています。
(写真右より)
〔中村賢一さん〕2004年まで旧藤野町役場に勤める。藤野ふるさと芸術村メッセージ事業、パーマカルチャーセンター・ジャパン、学園の誘致など町の発展に貢献。
〔浦上裕子さん〕シュタイナー学園12年アドヴァイザー、高等部校長。3人の子どもが学園を卒業。藤野への移転、学校法人化、高等部設立に尽力。
〔中村節子さん〕4人の子どもがそれぞれシューレ、学園に通い、広報、カレンダー、手づくり係などを担当して学園を支えた。



【そして、100年続く学校へ】

自分が羽ばたく空を目指して― 卒業生たち
増渕 智先生(2024年度12年アドヴァイザー)
 大切にしたいのは、一人ひとりが自分の学びたいことを、時間をかけて見つけ深めていくことです。近年は大学の入学試験も多様化し、総合型選抜試験等に挑み、進学して学びを深める生徒も増えました。卒業プロジェクトで取り組んだテーマを発表し、面接官との会話を楽しんだ、と言う生徒もいました。緊張し過ぎず人前で話せるのは、学期祭や劇、クラス発表などで人前に立つ機会が多かったからかもしれません。卒業生がそれぞれ歩む道で、学園での学びが助けになることを願っています。

●未来の先生を育てる― 教員養成講座・インターンシップ制度
帖佐美緒先生(教員養成講座担当・2025年度8年担任)
 先生を目指す方のため、学園には「シュタイナー学校教員養成講座」と「インターンシップ制度」があります。シュタイナー学校の授業にはいわゆる「マニュアル」がないので、先生になるハードルが高く感じるかもしれません。でも、授業の準備はとても楽しく幸せな時間。その学年で扱う内容をどう伝えようか、子どもたちの顔を思い浮かべていると、授業のアイデアが湧いてくるのです。いざやってみると思いもよらない反応が返ってくることもありますが、それが自分の視野を広げてくれ、エネルギーになります。失敗したってそれも学び! と思って子どもたちと楽しむ。先生はそれが面白い。体験すると人生が変わります!

●学園をささえる温かい支援― 寄付
伊藤彰洋(学校法人シュタイナー学園理事長)
 少子化が進む中でも多様な教育へのニーズは高まり続けています。私たちは、シュタイナー教育の理念に基づき、自然豊かな藤野の地を活かし、この学園でしか学べないこと、教えられないことの喜びを探求し、多くの方に知っていただきたいと思っています。名倉校舎は築44年、吉野校舎は築47年と老朽化が進み、修繕費だけで年間1千万円が見込まれます。あたたかい寄付をお寄せくださる皆さま、協力してくださる地元の皆さまに感謝するとともに、より多くの方に応援していただける学校であるよう、努力していきたいと思います。


 
【インタビュー】移住者の移り変わり

都内から藤野へ移住し、お子さんがシュタイナー学園で12年間を過ごした池辺潤一さん。建築家として藤野でたくさんの家づくりに携わってきた池辺さんに、移住者の移り変わりを伺いました。

持続可能な生き方をしたいという思いから自然豊かな藤野へ

 ―池辺さんはどのような経緯で都内から藤野へ?
子どもが生まれてから環境問題を意識するようになりました。今のままでこの子が大きくなるまで守ってあげられるのか? と思い、より自然が身近な土地への移住を検討しはじめ、色々な地域を検討しましたが、温泉に入りにたびたび藤野に来ているうち、地元の方に「来ちゃいなさいよ」と言われて(笑)。ここなのかも…と移住を決めました。

 ―シュタイナー学園のための移住ではなかった?
土地を探していた時はまだ名倉小学校がありました。子どもが通うのはそこだと思っていたら、引っ越した頃に名倉小がシュタイナー学園になっていた(笑)。でも見学したら自分たちの思い描く暮らし方に合うと感じて、移転3年目の学園に娘が入学しました。

 ―移住当時と今とで変化はありますか?
もともと移住者に寛大な方が多い地区だったと思いますが、当時精力的だった地元の方たちも高齢になり、自治会運営など地域の役割が移住組の若い世代に降りて来るようになり、昔からの住人と移住者の境界がよりなくなってきたと思います。

仕事と地域活動が暮らしの両輪に

 ―池辺さんは地域通貨「よろづ屋」の立ち上げメンバーですが、きっかけは?
持続可能な暮らし方をしたいと思い移住したけれど、ストーブ用の薪割りひとつとっても大変で、これはひとりじゃダメだと。そんな時「トランジションタウン」という持続可能なコミュニティづくりを目指す仲間と出会いました。ソーラークッカー作りやロケットストーブ作りなどいろいろな企画をするうち、地域通貨もやってみようという話が出た。コミュニティをより楽しく、良くしていきたいね、と。

モノや情報のやりとりなど、今では藤野の人をつなぐツールとして欠かせません。
やって良かったと思います。仕事は経済的な支えですし、自分の生き方と矛盾せずやりたいけれど、時には妥協もある。コミュニティに貢献する活動は自分が純粋な気持ちでできる。仕事と地域活動が両輪になり、生きる上で良いバランスが出来たと感じます。

より自分の人生を生きる、現在の移住者たち

 ―移住家庭の新築設計を多く手がけていらっしゃいますが、変化は感じますか?
以前はシュタイナー学園のために移住する人がほとんどでした。家の設計も子どものためのリクエストが多かった。この10年くらいで、人々のこう生きたい、こう暮らしたいという思いが変化したと思います。共働きが増えリモートワークもあって、特にお母さんの仕事スペースの希望が増えましたね。子どもが大きくなったら小さな商いをするスペースを作りたい、とか。より自分の人生を生きる女性や、社会に対して何かしたいと考えて藤野を選ぶ人が増えたと思います。

人のつながりが新たな藤野の文化をつくる

 ―これから移住する人へのアドバイスを。
子どもが成長して自分たちの老後を考えはじめています。だから移住する方には老後も考えて、と(笑)。田舎はやろうと思えばやれることがたくさんある。土いじりとか仲間との趣味の活動とか、そういうことが活力になりますね。

確かに藤野はやろうと思えば何でもできます。人のつながりがあるからでしょうか?
そうですね。移住者同士だけじゃなく地元の人も一緒になって、今、駅前にカフェやこだわりのお店ができています。藤野の空気感が人を呼び、さらに新しい移住者を引き寄せているのかもしれないですね。シュタイナー教育では何か課題があると、みんなで納得するまで話し合うことを心がけます。時に合理的な解決策が出なくても「思いを寄せ合おう」と、前へ進むことも。実はそれが人のつながりやコミュニティにも必要なのかもしれません。
〔池辺潤一さん〕
2007年に藤野へ移住。建築設計事務所『Studio ikb+』代表。自然素材を生かした家づくりを多く手掛ける。シュタイナー学園21期卒業生の保護者。

インタビュアー/柳田真樹子(事務局広報)
ライター/木村未来(事務局広報)


FUJINO STEINER COLUMN 19期卒業生 西田歩夢さん