学校法人 シュタイナー学園

活動報告

2021.12.08

教育

桑都(そうと)に学ぶ-10年生の職業実習と初等部の郷土学-

学校法人シュタイナー学園 ニュースレター
VOL.121 2021.12.8

10年生の職業実習では、製造業を中心に私たちの身の回りにあるものがどのような技術によって作られているのか、またその製造工程や働く方々の取り組みなどを5日間をかけて体験します。製造業と言っても多様な職種があります。製パン、木工、断熱材や髪ゴム製造、製菓など毎年のようにお願いしている事業所もありますが、今年度は新たに製本、製靴、着物の洗い張り、鮮魚卸、木材加工、楽器制作、織物の工場が加わりました。

今回は、特に八王子の織物工場について取り上げたいと思います。

〜織物工場での職業実習〜

学園の近隣の産業では、八王子の織物が良く知られています。養蚕が盛んで「絹の道」を通じて横浜港へ絹織物を出荷していた歴史から、今も八王子の甲州街道沿いには、立派な石造りの八王子織物会館が建っており、織物産業がいかに八王子の重要な産業であったのかを今でもうかがい知ることができます。

10年生は「手の仕事」の授業で、手織りの織物を制作しています。経糸(たていと)を張り、色や模様をデザインして緯糸(よこいと)をシャトルで織っていきます。この経験をもって、職業実習でも近隣の産業である織物の体験ができれば素晴らしいと思い、いくつもの八王子の織物工房に電話をし、やっと実習を受けてくださる『澤井織物工場』にたどり着きました。

『澤井織物工場』は、奥多摩の山々を見ながら拝島駅からバスに乗り、河川敷の広がる秋川を渡った先の高月地区にあります。高月地区は、八王子の米どころであり、11月には既に刈り取られた田んぼが続く美しい田園風景が広がっていました。

この地区では、昔から桑を植え、お蚕さんを育て、繭から生糸を紡いでいたそうです。

澤井織物工場の澤井伸氏は、高月の地で17代目、織物を始めて4代目の当主として、今では少なくなった「多摩織」の伝統を受け継ぐ伝統工芸士です。古民家の母屋と庭を囲むように配置された木造の古い建物に、何台もの手織り機と機械織機が設置されていました。

織物の新たな展開として国内外のハイブランドの特殊な織物も多く手掛けておられます。着物の需要が減り、織物を続けていくためには、別の活路を見出さなければ生き残れないということで、澤井織物工場では独自の創意工夫を重ね、過去にはニューヨーク近代美術館の通販でストールを販売したり、ハイブランドの複雑なテキスタイルや今年のオリンピックシーンでも使われた生地を制作されています。

東京であることを忘れるような、鄙びた集落の古民家にある織物工房で、実習先としては素晴らしいものの、恵比寿でキャンドル製造を希望していた2名の生徒たちが、興味を持って取り組んでくれるのか少し心配でした。生徒たちと一緒にご挨拶に伺ったときにも、ものすごいスピードで左右に行き交う機械織りのシャトルの速さだけが印象に残ったようでした。

はじめは、機械織りの織機に油をさしたり、きちんと織れているのか見守る仕事が中心だとうかがっておりましたが、生徒たちは機械織りでカシミヤのストールを織らせていただきました。学園の授業では経糸は50本程度でしたが、機械織りのストールは600本もの経糸を何枚もの綜絖(*)に分けて通さなければならなかったそうです。

着物の反物では経糸は2000本、帯では6000本にもなります。生徒たちは、細かい作業に失敗していやになりながらも600本の経糸を通し、複雑な模様のストールを織りあげてきました。

実習を終えた生徒たちが、何かを成し遂げたように誇らしげに見せてくれた100%カシミヤのストールは、柔らかな手触りで軽くて暖かかったです。やはり、生徒たちの中には善いものや美しいものへの感覚、物の質を捉える力がしっかりと育っているのだと、今は教師の私が誇らしい気持ちです。

*綜絖(そうこう):ヘルドともいいます。織機で経糸を上下に開きわけ、織物の組織や模様に合わせて緯糸が通る杼口をつくる装置です。経糸を引き上げ、緯糸を通すあきをつくる作業をいいます。

〜桑都(そうと)の歴史と学びのつながりについて〜

「桑都」という美しい名で呼ばれる八王子は、山がちで耕作地が少なかったため、古くから養蚕や機織りは農家の大切な仕事として行われてきました。戦国時代、八王子城を築城した北条氏照は城下町や市の整備をおこない、その市で織物も取引されていました。江戸時代にも西方の防衛や交通の要衝として整備された八王子宿で、市や織物の取引が引き継がれました。八王子は、絹産業を基盤に甲州道中最大の宿場町へと発展しました。周辺地域から多くの生糸が集められました。山間地の藤野では、昔は炭焼きや養蚕が多く行われていましたが、その繭や生糸も八王子に運ばれたのです。

時代が徳川幕府から明治へと移り変わり、1859年に横浜港が開港して輸出が始まると、日本の生糸や織物が横浜から大量に欧米へ送られるようになりました。当時、馬や人によって八王子から横浜へ生糸や織物を運んだ道は、浜街道(※地元では「絹の道」とも)と呼ばれています。その後、八王子や甲信地方で生産された生糸や織物を横浜港へ運搬する目的で、1908年に「横浜鉄道」として横浜線が開業するのです。

3年生の職人のエポックの学びは、製造業を中心としてモノづくりに取り組む10年の職業実習と呼応しています。加えて地域の産業を取り込んだ内容は、4年生・5年生の郷土学とつながります。今年度の4年生は、学校を中心に範囲を少しずつ広げ、藤野の古道を歩きながら、古くからの藤野の歴史や文化を体験を通して学んでいます。

今後、藤野でも盛んに行われていた養蚕から八王子の織物へ、さらには横浜へと学びがつながっていくことでしょう。

ライター/教員 大嶋まり